私は今でこそ、4つの介護事業所の統括部長。
介護・認知症・介護予防に関する講演・職員向け研修等の活動。本の出版(笑う門にはいい介護:諷詠社)をしていますが、我ながら昔の事を振り返れば
『今、よくそんな偉そうな事ができるよな』と正直思う次第でございます!
人を笑わせる事が大好き人間
宮根誠司をご存知ですか?
小さい頃から人を笑わせる事が大好きな私は、小学校一年生から親友の宮根誠司(フリーアナウンサー)と組んで学校のお楽しみ会や発表会で私が書き下ろしたコントや劇をやっていました。
私が自宅からカツラ、口紅を、宮根は自宅からスカートとかを親に黙って学校に持参し、二人で女装。クラスメイトを爆笑(?)させていました。当時から宮根も私も人を笑顔にする事に生きがいを感じるそんな子どもでした。
そんな私は20代後半に吉本興業の芸人になります!いよいよ本格的に人を笑わせる職業についたのです。
母親はとても喜んでくれて、私が載る雑誌、テレビはすべて保管。
「宝物だ!」と言いながら応援してくれました。同期にはココリコ、ロンドンブーツ1号2号、ペナルティー、極楽とんぼの皆さんがいました。
私は警備のアルバイトをしながら、一日500円のギャラ(交通費往復520円の実費は支給なし)で銀座七丁目劇場の舞台に立ち、ピン芸人として奮闘の毎日。
人を笑わせる事が出来る人間になりたい!そんな想いで日々過ごしていました。ところが芸歴3年目に突入した30歳の時、島根県の実家から母親が脳梗塞で入院したという連絡が入りました。
初めての介護が始まった
当時の家族の状況により、私が母親の介護をする事になり、後ろ髪を引かれるような想いで吉本興業を辞め、故郷の島根県へ戻る事になりました。
退院してきた母親の状態は、今で言う介護度3相当かと思います。
一人ではベッドから起きられない。日中は介助でポータブルトイレ、夜間はオムツ、立つことも出来ません。
それまで介護とか福祉とか全く考えた事もない私は初めての介護で戸惑うばかり。
初オムツ交換は30分くらいかかりました。オムツの前、後ろも分からない。
交換が終わったと思ったのに、左右のバランスが悪くて始めからやり直し、おまけに力を入れ過ぎてオムツが破れる、交換中に母親を何度も右にゴロゴロ、左にゴロゴロしてしまい、母親は「目が回る。酔う!」と言っていました。
介護初心者の私は挑戦の毎日。着替え、入浴、食事、オムツ交換等全然うまく行きません。すべて我流です。それでも母との会話の時は冗談が飛び交い、笑顔のあるほのぼのとした時間になっていました。
笑顔が消えた
ところが、介護を始めて半年くらい経過した頃から、母と私の笑顔は減っていきました。
自分の時間はない。経済的にもきつくなる。将来への不安は増える。
そんな状況で、毎日イライラしながらの介護となり、私のストレスは溜まって行く一方でした。
まだ当時、介護保険はありません。
介護疲れからの反動で介護放棄になった事もあります。
ストレス発散と思い、友達と外で会う事もありましたが、母親の事が常に頭から離れませんでした。
誰かに人に相談をしようとかも思いませんでした。というか誰に聞けばいいのかもわかりませんでした。
そしてついに精神的ゆとりは無くなり、母親と私の間から笑顔は消えていきました。
介護地獄!私はこんなに酷かった!
笑顔が消えて、何が始まったか!暴言による精神的虐待です。
「ふざけるな!」
「死んでしまえ!」
「お前のせいで吉本を辞めた!」
「人の人生をめちゃくちゃにした!」
「怠けていないで、自分でやれ!」
行き場のないストレスは、すべて母親に向けていました。
まさに怒りで感情がコントロールできない状態でした。
息子からこんな言葉を受けて、母親はいつも同じ事を言っていました。
「死にたい、死にたい、殺せや!わしを殺せや!」
母親と私の間で、そんな言葉のやり取りが日常になっていきました。
楽しい親子らしい会話は皆無となり、ため息と雑言、怒鳴り声、そして母親の泣き声が渦巻くそんな状況が、ここから8年間続くことになります。
まとめ:私は在宅介護の辛さ、ストレスを実体験し克服した専門職です。
今でこそ、介護について偉そうに話をする私ですが、実際に経験した介護の入り口は酷いモノでした。
まさに吉本興業からの介護離職に始まり、介護虐待、介護地獄を地で行っていました。高齢者虐待は年々増加していますが、その一人だったように思います。
そんな私が、周りの皆様のお陰で、介護に関する感覚が変わり、考え方も深くなり、受け止め方は上手になり、そして笑う門にはいい介護が生まれました。
次回はどのようにして私が変わり、いかに「笑う門にはいい介護」の考え方(介護笑顔第一主義)に到達したかを専門職である今、冷静に分析して披露して参ります。